きまぐれすっちーの雑記:臨床心理学メイン

心理系大学院で勉強しています。その中で感じたこと、考えたことなどを気ままに書いております。

主観とイメージ

こんにちは

今日は、主観とイメージについて考えていました

 

この間初めてケースをもたせていただいたのですが、インテークの後、自分の生活にまでそのケースが侵入してきている気がして、大変落ち着きませんでした。

 

さらに悪いことには、そのことに気が付かず、ケースの逐語録を書いた際に自分の連想までも書いてしまったのです。

 

そして、それをスーパーバイザーの先生に見せる前には、

なんと言ってもらえるだろうか、これは書きすぎだろうか、飛躍しすぎだろうか

とわくわくはらはらしていたものです。

スーパーバイズが終わったのち、次の日には、どうして自分はあんなに一生懸命説明しようとしたのだろうか、と独りごちていました。

 

そして、ケースが自分の生活に影響を及ぼしている、ということに気が付き、Clの力に驚くとともに、冷静に筆者の中にあるもやもやを見つめ始めました。

 

まず、逐語録の連想をすべて消しました。

消していくうちに、自分の自由だと思っていた連想に、自分自身が縛られていたということに気が付きました。

可能性がなくなる、とはこういうことだったのか、と。

 

そして次に、このもやもやは、Clが退出間際に撃った銃弾が、自分の中に残り続けていたのだ、ということに思い至りました。

そして、そのもやもやを処理したくて、自分と生活を守りたくて、一生懸命説明することによって、食い止めようとしていたのではないか、と考えました。

 

このこと自体は悪いことではないでしょうが、自分がもやもやしていることに気が付かず、とりあえず連想から説明しようとしたことが良くなかったのです。

 

今考えると、それはClさんに対する尊重が足りない行為であったな、とさえ思います。

なぜなら、筆者が書いたのは、私の主観がモリモリに入ったものであって、ケースそのものではなかったからです。

 

Clの行動や実際の言動からくみ取ったものなら良いのでしょうが、直感的に広がっていったものを共有しても、仕方がありません。

しかも、それを言葉や文字にすることで、確定、あるいは同定されてしまうために、それ以外の可能性が広がりにくくなってしまったのです。

 

初々しい失敗と言ってくださるでしょうか。

 

つまり、ケースに対する妥当性が足りない、ということです。

これは、客観的にも共有できるような、まざまざと想像できるようなイメージなら良いが、主観だけのイメージの世界だと、妥当性があまりない、といえます。

 

Clの表現した、遊びの世界の可能性を、Thが狭めてしまうような行為であり、誰かに言われたわけではありませんが、とても反省いたしました。

 

ここから派生して考えると、イメージによる現実感、というものが大事になってくるな、と個人的に思います。

筆者は昔から、あるイメージを心の中に持っています。

 

それは「雪と桜が降る中に、一本の大きな広葉樹があり、その前を羽衣を着た少女がバレエのようなダンスを踊っている。あたりは海に囲まれており、風が吹きすさぶ」というものです。

 

このイメージに落ち着く前は、

「少女がこちらに向かって歩いてきている。桜と雪が降っている。手を差し伸べてくるが、恐ろしくて仕方ない。後ろには植物が生えてきている、廃墟となった都会がある」というイメージがありました。

 

この、イメージの変化について感じていることは、植物が根を張るように、安定感が生まれてきたな、ということです。

そして、この木は、ふわふわと漂って消えてしまいそうな自分自身や、ふわふわと妄想の世界に浸ろうとする筆者を、現実の世界に根差してくれます。

あるいは、現実とイメージの両方に広がっていくような、支柱となってくれています。

 

時には少女と一緒に踊ったり、私が心に流す音楽に合わせて踊ってくれたりします。

 

そういった、イメージの世界の可能性ということと、現実的に存在している自分自身、というバランスが、なんとも難しい話ですが、重要なのだと思います。

 

それでは、今日はここまでとします。

なんだか取り止めのない話となってしまいましたが、読んでいただきありがとうございました。

楽しい夜をお過ごしください✨