きまぐれすっちーの雑記:臨床心理学メイン

心理系大学院で勉強しています。その中で感じたこと、考えたことなどを気ままに書いております。

仏教と夢

こんばんは、今日は仏教と夢について語りたいと思います。

 

心理系大学院生、もしくは臨床心理学に興味がある方ならば、河合隼雄先生の著書に触れたことがあるでしょう

そのなかに、仏教と夢というタイトルの著作集があることもまた、ご存じの方は多いと思います

 

筆者は、学部時代は仏教系の大学に通っており、仏教に触れる機会が多かったです

筆者自身が仏教徒というわけではありませんが、その教えがなんとなく心に残っています

とはいえ、具体的に教えを網羅して覚えているとか、そういうわけではありません

なんとなく、良い感じがしたものだ、という感覚で覚えています

 

最近、筆者はある夢を見ました

それは以下のようなものです

「少年の幽霊がいて、彼が銀色の怖い顔の仏を呼び出し、それが火を噴いて家を燃やす。家事になって、急いでリビングの座卓に座っていた青年と幼児を外に逃がし、自分も逃げようとしたが、母がベランダで飛びおりられずにいるのを見つけ、ためらう」

 

この怖い顔の仏を、調べてみると、不動明王の見た目をしていたことが分かりました

 

だからなんだ、と思うかもしれませんが、仏教の聖典の中にこのような文が記載されていることを今日知りました

 

それは

「この世は火の宅のように安らかではない。人々は愚かさの闇につつまれて、怒り、ねたみ、そねみ、あらゆる煩悩に狂わされている。赤子に母が必要であるように、人々はみなこの仏の慈悲に頼らねばならない

 

仏は実に聖者の中の尊い聖者であり、この世の父である。だから、あらゆる人々はみな仏の子である。彼らはひたすらこの世の楽しみにのみかかわり、その災いを見通す知恵を持たない。この世は苦しみに満ちたおそるべきところ。老いと病と死の炎は燃えてやまない。

 

ところが、仏は迷いの世界という火の宅を離れ、静寂な林にあって、『いまこの世界はわがものであり、その中の生けるものたちはみなわが子である。限りない悩みを救うのはわれひとりである。』と言う」

 

というものです。

長い抜粋ですので、時間があるときにでも味わっていただければと思います

 

筆者は、この迷いの世界という火の宅にいるような気がします

すべての人々がとらわれてしまう迷いの世界に、不動明王が現われたのです

 

調べたところ不動明王は、煩悩を燃やし、正しい道へと導く仏様とされます

筆者に夢から、無意識から、自身の煩悩への指摘がなされました

 

それは、幼児のように甘えを求めるもので、あるいは男性のように権威を求めるものだったのかもしれません

そして、何もかも包み込もうとする母性原理だったのかもしれません

 

ケースの中で、母性原理が強く出過ぎてしまい、よろしくないな、と思い始めたところです

今後は、仏のような父性を取り入れていきたいものです

 

プレイルームの中で、限りない悩みに耳を傾けるのは、筆者ひとりである。

そういった、筆者個人の煩悩から解き放たれた、目の前のクライエント、ただそれが全てであるという態度が、クライエントとの対等で純真な関係へとつながるだろうと思います

主観とイメージ

こんにちは

今日は、主観とイメージについて考えていました

 

この間初めてケースをもたせていただいたのですが、インテークの後、自分の生活にまでそのケースが侵入してきている気がして、大変落ち着きませんでした。

 

さらに悪いことには、そのことに気が付かず、ケースの逐語録を書いた際に自分の連想までも書いてしまったのです。

 

そして、それをスーパーバイザーの先生に見せる前には、

なんと言ってもらえるだろうか、これは書きすぎだろうか、飛躍しすぎだろうか

とわくわくはらはらしていたものです。

スーパーバイズが終わったのち、次の日には、どうして自分はあんなに一生懸命説明しようとしたのだろうか、と独りごちていました。

 

そして、ケースが自分の生活に影響を及ぼしている、ということに気が付き、Clの力に驚くとともに、冷静に筆者の中にあるもやもやを見つめ始めました。

 

まず、逐語録の連想をすべて消しました。

消していくうちに、自分の自由だと思っていた連想に、自分自身が縛られていたということに気が付きました。

可能性がなくなる、とはこういうことだったのか、と。

 

そして次に、このもやもやは、Clが退出間際に撃った銃弾が、自分の中に残り続けていたのだ、ということに思い至りました。

そして、そのもやもやを処理したくて、自分と生活を守りたくて、一生懸命説明することによって、食い止めようとしていたのではないか、と考えました。

 

このこと自体は悪いことではないでしょうが、自分がもやもやしていることに気が付かず、とりあえず連想から説明しようとしたことが良くなかったのです。

 

今考えると、それはClさんに対する尊重が足りない行為であったな、とさえ思います。

なぜなら、筆者が書いたのは、私の主観がモリモリに入ったものであって、ケースそのものではなかったからです。

 

Clの行動や実際の言動からくみ取ったものなら良いのでしょうが、直感的に広がっていったものを共有しても、仕方がありません。

しかも、それを言葉や文字にすることで、確定、あるいは同定されてしまうために、それ以外の可能性が広がりにくくなってしまったのです。

 

初々しい失敗と言ってくださるでしょうか。

 

つまり、ケースに対する妥当性が足りない、ということです。

これは、客観的にも共有できるような、まざまざと想像できるようなイメージなら良いが、主観だけのイメージの世界だと、妥当性があまりない、といえます。

 

Clの表現した、遊びの世界の可能性を、Thが狭めてしまうような行為であり、誰かに言われたわけではありませんが、とても反省いたしました。

 

ここから派生して考えると、イメージによる現実感、というものが大事になってくるな、と個人的に思います。

筆者は昔から、あるイメージを心の中に持っています。

 

それは「雪と桜が降る中に、一本の大きな広葉樹があり、その前を羽衣を着た少女がバレエのようなダンスを踊っている。あたりは海に囲まれており、風が吹きすさぶ」というものです。

 

このイメージに落ち着く前は、

「少女がこちらに向かって歩いてきている。桜と雪が降っている。手を差し伸べてくるが、恐ろしくて仕方ない。後ろには植物が生えてきている、廃墟となった都会がある」というイメージがありました。

 

この、イメージの変化について感じていることは、植物が根を張るように、安定感が生まれてきたな、ということです。

そして、この木は、ふわふわと漂って消えてしまいそうな自分自身や、ふわふわと妄想の世界に浸ろうとする筆者を、現実の世界に根差してくれます。

あるいは、現実とイメージの両方に広がっていくような、支柱となってくれています。

 

時には少女と一緒に踊ったり、私が心に流す音楽に合わせて踊ってくれたりします。

 

そういった、イメージの世界の可能性ということと、現実的に存在している自分自身、というバランスが、なんとも難しい話ですが、重要なのだと思います。

 

それでは、今日はここまでとします。

なんだか取り止めのない話となってしまいましたが、読んでいただきありがとうございました。

楽しい夜をお過ごしください✨

記録が終わらない件

こんばんは、今日もお疲れ様です

筆者は心理系大学院に通う者です。
実は最近ケースを取り始めて、土日に逐語を起こすようになったのですが、このケースの記録が全然終わりません。

できるだけ詳しくということなので、入室から退室までを全て文字に起こしているのですが、相当な時間がかかってしまいます。

筆者は比較的タイピングは早い方だと自負しておりますし、他者からも何度かタイピングを褒められたことがあります。

だというのに、六時間はかかってしまうのです。

これ、どうやって早く終わらせられるようになるんですかね?

大事に、丁寧に記載するほど、当たり前ですが時間はのびていくし、けれども雑には記載したくない…。

かなりのジレンマです
まだ後期が始まってないためいいですが、始まったら大変なことになりそうで、今からヒヤヒヤしてます

誰かコツがあるなら教えていただきたい…

自由になりたい

こんにちは、なんだか縛られている感覚がするので、何に縛られているのか考えてみたいと思います

自分を縛るものは、自分自身であると自覚しています

では、いったい何に縛られているのでしょうか

この縛られている感じというのは、ぎりぎりと胸を締め付け、思考を鈍らせ、自由な表現というのを妨げてきます

辛くて、もう嫌だと思うものです

これは、何となく周囲の反応を気にしているからなんだろうな、と感じています

嫌われたくない、嫌な人と思われたくない、頭が悪いと思われたくない、という自己保身が、自分の中で働いています

よくないものを排除しようと躍起になって、結局何も成し遂げられない、清濁併せ持つことが出来ないつまらない人に成り下がっているのです


これではよくない

これから、自分に対してもっとおおらかになって、自由に進んで行くには、どうしたら良いでしょうか

…人のことを気にせず、思ったことを言うのが一番良いでしょう

しかし、なぜか言えない、言いたくない
どうしてか

愛情がほしいのかもしれません

愛されていたい、特別に思われたい、という気持ちが、筆者の自由を邪魔しています


なら、愛情を感知する精度を上げれば良いかもしれない、と今思いました

ちょっとしたことに気がつくことが出来るという長所があるので、ちょっとした愛情に気がついていけば、筆者はとてもハッピーになるかもしれません


愛がほしい、愛がほしいと叫んでいるこの心も、それなら良し、と言うかもしれません

そうだ、そうしよう

一旦これで頑張ってみます

読んでくださりありがとうございました

心理検査勉強会の感想

こんばんは、お久しぶりです
ばたばたしており、かなり久々の投稿となります💦

今日は、M1の皆で心理検査勉強会をしてきました
前回はロールシャッハだったのですが、今回はバウムテストです!
実際に自分たちでやってみて、感想を言い合いました
そして来週あたりまでに、所見をまとめてみようということになりました

この感想のところで、とても嬉しい感想をいただいたので、記録がてら書きたいと思います

まず、繊細に描いていく感じが筆者っぽいということを言ってもらえました
しゃーしゃーと、線を丁寧に描いていたのが印象的だったようです

次に、樹冠も根も広がっていく感じから、色んな人とカメレオンのように波長を合わせていく筆者の様子を連想し、「神がかった感じ」とまで言ってもらえました

とても嬉しかったです

しかし、その大きさの割には、幹が細めで短く、押しつぶされそうな感じがする…とのことで、でもそれすらも分かってそうだよね、と言われました

自分では幹を精一杯太く描いたつもりなのですが、支えるのには心許ないと言われて

なるほど、たしかに言われてみれば膨大な感覚に時折いっぱいいっぱいになるな、と思いました

ここまで書いてなんですが、人に自分のことを語ってもらうことが嬉しすぎたので、なんだか見てみて!という感じで書いています

話半分程度で読み飛ばしてもらっても大丈夫です笑

あとは、幹に苔を描こうと思ったけど、やっぱりいいやとやめたあたりの話をすると、何か思ったけど表現しない感じが、筆者っぽいな、と思われたようです

これも言われてみればそうだなぁ、描いても良かったのになぁ、と考えていました

実は、リンゴのような甘い果物と、なしっぽいものを描きました

このことについて、所見でどんなことが描かれてるんだろうと、とても楽しみです

最後の雑談の中で、絵本の中の子のようだ、という話が出ました
タイトルは忘れてしまったのですが、色んな動物の盟友がいる世界で、それぞれの動物の盟友は、その動物とお話ができるというお話のようです

そして、その中で万物とお話しできる盟友がいて、筆者はその子のようだ、と言ってくださいました

こんなに褒められたことは中々ない物ですから、そうなのかな、嬉しいな、という気持ちでいっぱいです

この絵本の名前、覚えておいたら良いなぁと後悔してます、また聞いておこうと思います


それでは今日はこの辺で、よい週末を✨
読んでいただきありがとうございました

ブラックと学生と心理職

こんばんは、今日はいわゆるブラック職場について考えていました。

筆者が現在通っている学校に、先日外部講師が来られました。
かつては筆者の学校で教鞭を取られていたようで、筆者の所属する心理センターについて苦言を呈しておられました。

すなわち、筆者の学校は優秀な心理士が算出される一方で、自己犠牲に走りがちで燃え尽きてしまう、ということでした。
バーンアウトに繋がってしまっている、ということです。

このことから、どうしてそのような傾向が生まれてしまっているのか考えたところ、

大学院生時代、つまり未熟な時代に刷り込まれた奉仕精神が影響しているのではないか、と思い当たりました。

筆者の学校では、おそらく他のところもそうでしょうが、M1が電話番や事務作業を担当しています。

事務員さんはいるものの、M1が入ることの出来る時間は全てM1が担当しています。
もちろん無給です。

なんなら、講義を無視しても良いので電話番を優先してほしいとさえ言われました。

このことについて、筆者の個人的な気持ちでは、

別に構わない、少ししんどいけれどもセンターという内部組織のためだから、頑張りたい
社会人経験のない学生に、経験を積ませていただいてありがたい
クライエントと接する機会を得てありがたい

という認識です。
なんら問題はありません。


しかし、構造上の問題があります。
それは、
①お金を払っている授業を公欠してまで出席するという奉仕精神
②先輩がモデルとなって誘導する無益な行動奉仕
③研修期間であっても対価が出る社会人と、学生との身分差
④これらが当たり前になることによる、ブラック構造の常態化

です。

心理職は、ブラックだと言われます。
奉仕することに生きがいを感じるあまり、現実的な対価を、求めようとしていないからです

その結果、心身に疲労が溜まり、バーンアウトに繋がりうると思います。

いざ自分が現役の心理士となったら、とてもこんなことは言えないでしょう。
奉仕することこそ美しいとされる職場では、その思想に染まってしまいます。

仕事にはそれに見合った報酬が支払われ、心理士として活動する方々に、相応の給料が出れば良いなと思います

それでは今日はこの辺で
一週間お疲れ様でした!

性別にとらわれない視点

こんばんは、今日は性別について考えていました

皆さん、性別ってどこまで重要だとお考えですか?
男らしく、女らしくとはどこまでその人を決めますか?
これは、意地の悪い問いかけではなくて、ただ純粋に疑問に思ったことなのです

筆者は、性別についてあまり気になりません
例えば恋愛対象としてなら、異性でも同性でも、どちらでもよいと思っています

現在は、というか小学生の時からお付き合いしている方がいるため、異性としか付き合ったことはありませんが、思想や感覚としては、どちらでも大丈夫だな、と感じます

こう書くと、異性にも同性にもプラスで好意を抱く人間だと思われそうですが、実はその反対なのです

異性にも同性にも、性別と言った観点からではプラスがない、むしろ性別の差に関心がないため、マイナスです

伝わるでしょうか…
筆者は、異性でも同性でも、好きになればどちらでも良いのです
性別に興味がない、と言えます

この感覚を抱くようになったのは、おそらく三つくらい理由があって、

一つは異性にも同性にも、素敵な人と、とんでもない人がいることに体験をもって気付いたこと

二つには恋人が解離性同一性障害であり、例え同性人格が出てもひっくるめて好きだなと思ったこと

三つにはそもそも性別よりも中身が好きだったこと

あたりが挙げられます

特に三つ目に関しては、誤解を生まないようにお伝えしたいのが、異性だから好きとか、同性だから好きというのではない一方、恋愛対象として見た好きな人に性的魅力は感じることがあるということです

性別に興味がないだけで性的魅力は好きです
当たり前のように好きです

ニュアンスが伝われば、と思います


また、上記以外にもつまらないなと思うから、というのも理由の一つかもしれません

男性だからという理由で女性から強くあたられたり、女性だからという理由で自分を抑えていたりするのを見ると、性別ってつまらないなと思います

外見についても同様です
自分磨きをして、美しくなることは良いことですが、小顔だからかわいいとか、足長くてかっこいいとか、所詮美しいとされるステレオタイプな訳ですから、あえて人に言う必要はないでしょう

どうしようもない外見に優劣をつけることは、果たしてどれほどの意味があるのでしょうか

それよりかは、比較的今日のメイクかわいいね、とか、今日のファッション好きだよ、と言った方がまだ良いかと思います

これもメイクしたくない人にとっては嫌な風習ですし、奇抜な服装が好きな人にとっては余計な一言と感じられるでしょうが…

本当に信頼し合っている人以外は、外見に言及しなくても良いのではないか、とそう思います

これらは全て個人的な気持ちですので、あまり気にせず読み飛ばしてもらって大丈夫です

ここまで読んでいただきありがとうございます👍
また次回お会いしましょう